武藤彩未の場所


かくて武藤彩未というソロアイドルは、幕を下ろしたのである。


などと、その最後となるライブを観てもなお、気持ちの整理や納得が出来るはずもなく、去来するのは「なぜ、これほどまでのパフォーマンスが出来る彼女が、活動を休止せねばならないのか」というどうにもならない想いと、アンコールでのサプライズとしてサイリウム配布を計画し、大団円な演出で幕引きを図るプロジェクトスタッフへの疑念が募るばかりであった。


2014年6月、かつて「A.Y.M. ROCKS」と銘打たれた、その名の通りロックなサウンドでパフォーマンスをするというワンマンライブが開催された。武藤彩未のそれまでのステージングというのは、舞台装置や照明、映像演出。それにMIKIKO先生により考案された振り付けを取り入れ披露するという、それぞれのスタッフが総出でキッチリ作りこみ、楽曲から導かれる世界観を武藤彩未を通じて構築していく、そんなパフォーマンスが観られるライブであった。それに対し「A.Y.M. ROCKS」というのは、武藤彩未がバンドメンバーの一員として、バンドのボーカリストとしてステージに存在し、時には彼女自身がその激しいバンドサウンドに身を任せながら、そして観客の声援やテンションに呼応する形で熱を帯びるライブハウスの空気に酔いしれ、彼女が考えるロックサウンドのダイナミズムを彼女なりに体感・表現するというのが「A.Y.M. ROCKS」の趣旨であったのだと思う。


さくら学院というアイドルグループの一員としてパフォーマンスしてきた経験と、ロックバンドのボーカリストとしてステージに立つのとでは、何からなにまでその全てが違うだろうし、彼女自身にとって大いに刺激のあるものであったのは間違いない。おびただしいほどの汗をかきながら、時に歌詞を飛ばしながらもラフに熱唱する彼女を見て、これも良い経験、良い寄り道をしている最中に立ち会っているのだと、思ったり納得させたりしたものだった。


そう、あの「A.Y.M. ROCKS」で見せたものは、ロックとはなんぞや?というものを、80年代歌謡曲が原体験としてある彼女が、彼女なりに思い描いたロックなるパフォーマンスを表現するという、修練の場として機能したプログラムだったのだ。


そこでの彼女は、それぞれの楽曲にしっかりと決められた振り付けを、それまでのキャリアで培ってきたような忠実に演じることを必ずしも是とはせず、バンドサウンドの音圧と観客の熱気が生み出すグルーヴを全身で浴びながら、その気持ち良さをストレートに全身で表現することを優先させた、ロックバンドとしてバンドメンバー達と対等に存在するボーカリスト武藤彩未がいたのである。


さて、先日の赤坂BLITZにおける、所謂ラストライブとなるX'mas Special LIVE「A.Y.M.X.」である。その日のステージは、かつての「A.Y.M. ROCKS」や渋谷公会堂での構成と共通する、バンド形式でのライブであった。しかし、同じ形式ながらもそこで見せた武藤彩未のパフォーマンスは、ロックバンドの一員として存在するのではなく、またバンドサウンドに身を委ねるようなラフな歌唱スタイルでもない、ステージの中央に堂々たる風格で佇み、指先にまで神経を集中させたキレのある淀みのない振り付けを纏いながら楽曲それぞれの世界観を演じ、静謐に歌い上げることへ注力した武藤彩未がそこにいた。


ライブ終盤に、前列付近にいた観客から「ロックアーティストになるのか」というちょっとした、しかし直球な質問が彼女に投げかけられた。彼女はその問い掛けに、ロックというアプローチは手段のひとつであり、それが目的ではないという趣旨の返答をした。つまり「A.Y.M. ROCKS」というのは、表現方法を磨く上でのひとつの経験であり、X'mas Special LIVE「A.Y.M.X.」で見せた彼女のパフォーマンスこそが、件の「ロックアーティストになるのか」という疑問に対する彼女からの回答であり、そしてソロとして活動してきたこれまでの研鑽が集約されたライブであったのだ。


この2年半という短い間に、まさしくTRAVELING ALONEとしか言い様のないその道のりは、時として周囲から迷走しているように見えたところも多分にあったとは思う。様々なサウンドにアプローチし、様々なアウトプットを試みながら、そして自身がこれまでの集大成にしたいとまで語った赤坂BLITZでのステージは、必ずしも武藤彩未そのものが、例えばロックなら「ロックを表現」する為のパフォーマンスにとらわれなくてもよいのだと、それがEDMサウンドだろうがロックバンドのサウンドだろうが、ソロシンガーとして楽曲と向き合い演じ切る、そこに「歌手になりたい」とあらためて語った、武藤彩未が現時点で到達したステージでの表現方法が示されていた。だからこそ、ここでの休止宣言は残念でならない。


あらためてこの休止宣言とはなんだったのか。誰が突きつけたのか、なぜこの方法しかなかったのか、もちろん知る由もない。

恵まれた環境に甘えていたのかもしれません。
だから、自分の気持ちを確信に変えるためにも、
ここから心を育てる時間を作ろうと思います。
当たり前にあると思っていた環境から離れて、いろんな世界を見てみたいです。

いつも応援してくださっている皆さんへ / 武藤彩未 Official Site

彼女は折りに触れ「勝負師の娘」であると、父が元騎手であることになぞらえ自身をそう評することがある。最初のアルバムである「DNA1980」のレコーディングに臨む際も、頑張りますではなく「私は負けません」と言い放ったのである。この彼女のパーソナリティを伺い知ることが出来るエピソードから、今回の休止宣言の持つ意味というのをあらためて考えると、意図的に彼女自身がこのプロジェクトを停止させたかった側面もあるのではないか、などと思ったりもするのだ。


1900円という破格値で渋谷公会堂のワンマンライブをやってのけたアミューズである。このままでは20歳での武道館ライブというストーリー作りも様々な手段を講じて、力技でやってやれないことはないだろう。しかし彼女自身、現在自分がシーンでどのような立ち位置にいるのか、冷静に見つめているだろうし、不相応であるというのは重々承知のことと思う。だからこそ、このまま不本意な形での「武道館ライブ」を敢行させられるより、初めからやり直すという勝負師としての強気な賭けに出たのではないか。


なあんて。そんな好意的かつ馬鹿げた解釈を妄想してしまうくらいには、この休止の意味が見えてこないのである。アルバムが売れません。ライブの集客も良くないです。なので契約終了します。だとするならば、このプロジェクトの矜持とは何だったのか、と思うわけです。


まだ2年半なのか、もう2年半なのか、結果を求められる期間としては様々に捉えられる長さではありましょうが、これ以上は運営への悪口を書き連ねるしかなくなるので最後に一言。


武藤彩未は、なにも悪く無いです。
ラストライブを観て、彼女が輝ける場所・表現は必ずあると思いました。